■阪口涯子の俳句

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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (2)


          写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて
           


         
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        ●黒の回想 わが俳句遍歴記 (2)
 
   1980年1月4日(金)つづき
 
 涯子よお前は今海程に居て「長老」と呼ばれ、或いはそれは海程の若い人に嘲弄されているのかもしれぬ。


 黒い涯子よ。アレックス・ヘイリーか或いはその子孫のごとく、クンタ・キンテの北西アフリカのルーツを何うしても一度見直したかった、その生の本能がそうさせたのか。


「古いものはすべて塵(ちり)になるんだよ」とアレックス・ヘイリーの祖母は云ったが、その塵になり終ったのか、巨木の横断面


によみとれるほどの年輪が尚存在しているのか、黒い涯子のルーツを求める遍歴、それが何んなに悔しい遍歴であってもいい、その墓碑銘をやっとお前は書きたくなったのにちがいない。



 戦争中一度、「も少し線の太い俳句は書けないものかネ」と禅先生は僕に云った。戦車がバリバリと向日葵をふみしだいて行くような作品はぼくの柄になかったので、そして満州の苦力(クリー)や


トラホーム少年のうたなどばかり書いていた僕に禅先生は少し我慢が出来なかったのであろう

がぼくだって戦車が向日葵をふみしだく音にはガマンが出来ない。中国の都市を占領してその城門での日の丸踊りの風景が何十もつづく


その裏側のものには、ぼくの神経は堪えられない。正に不肖の弟子である。


 戦前、戦中、戦後を通じて福岡今泉の銀漢亭、即ち「天の川」発行所を訪れたのは四、五回であっただろうか。戦後おとずれた時は銀漢亭はすでに焼け落ちて南瓜畑の隅っこの仮小屋の縁側に禅先生はちょこなんと座っておられた。


 敗戦後二年目の夏であった。そこには向日葵も戦車も大豆糟(かす)の重みに堪える苦力も居

なかった。日の丸の旗も無かった。禅先生の眼には心なしか少し光るものがあった。



 あのころはひどい交通難で佐世保のそれも片はずれの郊外から廃墟の福岡に出て、親戚の結核で瀕死の小母をたづね、そこに一泊しての翌朝だったように記憶する。

南瓜の花にはまだ露が垂れていた。


禅先生が無事帰還したぼくのこと、その時ひどく喜んで呉れたことは覚えているが、そのときすでに先生の胸中にはおそらく全口語自然律俳句の構想が、異国風の貝やぐらの風景のように点滅していたことであろうが不肖の弟子涯子はそれに全く気が付かなかった。



 それよりぼくの親戚の小母さんのことに触れておく。昭和十年から十二年まで、大連での放逸のはてにぼくは九大に帰学していた。そして人体における癌の発生機序という飛んでもない大問題に蟷螂の斧をふるった。



 それはミニミニのドン・キホーテ的冒険であったし、冒険というより、むしろそれは笑話であった。

その笑話の二年後の後半の一年間はぼくはこの小母さんの所に寄寓していた。そこの小父さんがぼくの家内のイトコであって、よく働いたがよく飲む人でもあった。

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  1. 2006/01/05(木) 21:22:13|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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