■阪口涯子の俳句

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●黒の回想 わが俳句遍歴 (6)


        ●タイトルの涯子句  戦後俳句作家シリーズ36・阪口涯子句集・砂之章 より抄出
                     写真 ヤマボウシ
          

          黒の回想 わが俳句遍歴 (6)

     1月5日(土) つづき 

 その後ぼくが昭和十年から十二年なで九大に帰学したこともあるが、弟はとんとん拍子で自分の水を泳ぎ、その少しあとだが満州国中央放送局の放送課長になり、慶応を出た演出部の糸山氏ら

と組んでラジオドラマを流したりしたいたが、あとでその放送部に内地を避けて高屋窓秋やに仁智栄坊も来たし、これは満鉄からの転向だと思うが森繁久弥もそこに居た。

 
 窓秋や栄坊とは大連でよく会ったし、弟も少し俳句をやっていたが、敗戦前二、三ヶ月の頃、中央放送課長の職は参事でなければいけない。僕の弟はまだ若くて副参事であったので安東の放送局長に廻されてしまった。

 
 「もう危ないからお前一人で行け、妻子は新京に残せ」と僕は云うのだが「兄貴みたいに云ってたら戦争なんて出来はしない」とそのころ強気に転じていたらしい弟は妻子を連れて安東に行った。

やがて敗戦。長と名のつく日本人は鴨緑江対岸の朝鮮の新義州の監獄にソ連軍のために投獄されてそこで発疹チフスのために弟は死亡した。

その便り、逓信関係の人から電話で聞かされたが、
敗戦直後の混乱の日日、無蓋車で襤褸をまとった栄養失調の日本人が奥地からぞくぞくと大連へやって来ていた、そんな大連に居たぼくには骨をひろうことも何うすることも出来なかった。

かつてのマルクスボーイの弟は赤軍の手によって鴨緑江の河畔でその生を閉じた。兄弟の中で一番ぼくが信頼していた弟。

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  1. 2006/01/13(金) 08:46:44|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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