■阪口涯子の俳句

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●黒の回想 わが俳句遍歴 (11)


                       写真 「梅花空木」 2005.5.3 撮影


           黒の回想 わが俳句遍歴 (11)
  
     
     1月6日(日)ーーー雨 つづき

 昭和十二年五月末僕は郷里にあずけていた病気の妻と子供二人を連れて大連に帰った。満三十三歳。

 その年の七月に盧溝橋事件がでっちあげられ、それが日支事変太平洋戦争へと拡大した。そし

て「天の川」が仮に右へ右へと走っていた時代、僕はそれも仮にだが左へ左へと走っていった。

 

 其のころ俳句弾圧事件もあって高屋窓秋も仁智栄坊も満州へ逃げて来ていたことは一寸前にも

触れたが、僕らは大連で「天の川」の井上生邑(あとでの沖電気社長、死亡)平湯催青、島添哲朗(あと

で沖電気重役)「青玄」前身の「太陽系」の清水顕(あと南方にて戦死)「京大俳句」の河内俊

成(現三角点同人)「土上」の武田勝利(引揚五死亡)満鉄機関誌編集人の富田鷹夫(終戦直後

新京にて病死、現在の三木卓の父)途中から這入られた内田慕情などと共に大連で親興俳句グ

ループの会をつくっていた。

 

 時には新京から高屋窓秋、仁智栄坊もその句会に出て呉れた。だからその会は日本新興俳壇

の一縮図と云えなくも無かった。勿論それは後期或いは末期の新興俳壇に就いてであるが。内地

のどこかの雑誌で「天の川とは違った方向に涯子は独りで走っている」とか「涯子をそのままおいて

いる天の川も天の川なら脱退しない涯子も涯子だ」といわれたが、ぼくには「天の川」の視野をも少

し拡げたい意図はあったにしても「天の川」を脱退する積もりなど毛頭無かったし、それより禅先生

は懐(ふところ)のふかい人であった。

 

 それを寛容と忍耐という人もあるが、僕を置く寛容はあっても忍耐してまで「天の川」に僕を置い

たとは到底考えることは出来ない。

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  1. 2006/01/23(月) 08:07:01|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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