写真 「阪口涯子」 79歳
阪口涯子の第一句集『北風列車』を転載いたします。
昭和十三年、涯子36歳からの十年間の俳句です。
若き医師、涯子の波乱の満州時代は、
このようにして書き残されています。
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●『北風列車』阪口涯子 昭和25年(1950年)刊 天の川文庫3
全作品を、親友井上光晴が編集発行の、『辺境』という季刊誌に、1972年3月、転載しています。
転載にあたっての、阪口涯子の文章も含めて、その全文を、載せます。
順は逆になりますが、文章を先にUPして、
『北風列車』 の書かれた経緯を
お読みいただくことにいたしました。
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「 北風列車」を書き了ったのはいまからすでに二十五年前。
書きはじめたのは昭和十三年だから今から三十六、七年前の、満州事変突入後であった。
その時僕は大連に居た。生来放浪癖につきまとわれている僕が大連に渡ったのは、実は昭和四、五年頃であったが、昭和十年から十二年までは、九州大学に帰って、その生化学教室で、生体内の癌の発生機序に就いて、僕はドン・キホーテ的冒険旅行を試み、無数の罪なきウサギやネズミを殺戮しつづけていた。
科学という名のもとに、僕は利己的な学位取得という極めて利己的な醜い所業を続けていたわけだが、その虚しさに気付きいらだった果てに、しきりに何か創り書きたくなったのだが、書きたくなったといっても、その書く技術が僕にあるわけではない。
只、学生時代、「天の川」の吉岡禅寺洞に就いて少し習いおぼえた、そしてそのころ既にそれから遠ざかっていた俳句という形式によってそれを書くより外はなかった。
その頃の俳壇はホトトギス流の花鳥諷詠に反旗をひるがえし、より人間臭いものをと志向した、所謂新興俳句運動の、途半ばのころであったし、その運動も、二・二六事件以後、満州事変勃発時の暗い時代の影響をうけて弾圧されはじめた頃であり、
研究室から昭和十二年再び大連に渡った僕が、何かを俳句形式で書くといっても、いつも国家権力におびえ乍ら、併し何かを書かねばならぬ、そんな時代が続いていた。
「北風列車」の前半は、そんな時代の影響のもとで、途中何度かペンを折り乍ら書かれ、「天の川」に発表したものである。
その後半は、ソ聯軍に占領された大連や、敗戦後一年半にして、同胞お互いに血を流しあった、地獄船ー永徳丸とかいった引揚船で郷里の軍港佐世保郊外に引揚た、その郷里を家庭の事情もあって、決して愛してはいなかった僕であったが、そんな場で書きつがれた。
その「北風列車」は天の川文庫3として、昭和二十五年に発表されたものであったが、発表当時、毀誉ほうへん、黙殺、いやむしろ黙殺の方が誉よりは多かった。
俳句の骨法を心得て居ない、散文的だという形の上からの非難、進歩て的な顔をしながら随所に馬脚を表わしているという、ある種イディオロギストからの非難の方が、賞められるよりはむしろ多かった。
その非難の大部は勿論当っていようし、僕は一度も自己を弁解したことはない。
只、上京した井上光晴が「ガダルカナル戦詩集」の中で、前線兵士の生々しい詩と「北風列車」の前半のいくつかの俳句とを対比させながら、その小説は書き続けられているわけだが、そこに僕の俳句をいろいろ引用してくれたことは嬉しかった。
僕の作品が単に物語の素材に使われているに過ぎないことは勿論承知の上である。
ごく最近の光晴作品は、僕がこの二月まで数年間、船医になって海上をさまよい続けていたせいもあって、よく承知していないが、
「ガダルカナル戦詩集」は、僕が知っている限りの井上作品では、
「地の群れ」につづく彼の代表作だと思うし、その一素材になったということは、彼に勝手にフィクシアルに踊らされているに過ぎぬ訳ではあるが、俳句作りの僕としてはやはり、「アリガトウ」というより外はない。
そして、このころ会うたびに僕の作品の堕落を言いつづけ、何だったら「北風列車」を「辺境」に載せようかと、この十二月、忽然と佐世保に現れた、そのときもそれを言った。
「アリガトウ」と御礼の返事をするより外はない。
井上光晴に堕落を責めつづけられながら、すでに僕は年老いた。
旗に咳し砲に咳して白瀑布
これも堕落かと、この十二月、飲みながら書いたら、「ウウン」と言って彼は返事をしなかった。
詩は、俳句は、青春のなすわざに過ぎないのであろうか。
鉄斎やピカソやカザルスのように美事に老いることは、詩人や俳人には拒否された道であろうか。
1971.12.22 涯子記 (涯子・70歳、nora注記)
Author:阪口涯子応援隊
■写真・阪口涯子・79歳
『航海日誌・黒の回想』扉
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