■阪口涯子の俳句

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●黒の回想 わが俳句遍歴 (15)


            黒の回想 わが俳句遍歴 (15)


  2.11(祝日) つづき

 当時は秋桜子も誓子も新興俳句側に組みこまれていたらしい。新興俳句という言葉は誰が使い

出したのか、当時俳句を離れていた僕には「無季」の概念ほどには、はっきりしない。昭和十二年

俳句に再出発した僕の頭の中の新興俳句誌の代表は「天の川」「京大俳句」「土上」(島田青峰)

「旗艦」(日野草城)「句と評論」(松原地蔵尊)「広場」(藤田初巳)などであった。

 
 
 遠い昔のことで、記憶さだかでない。が、晦渋といはれた「天の川」の作風と優美と称された「馬

酔木」の作風と、より近代的で回転速度のはやいぼくの先輩横山白虹、性格的にも全く異質な

三者に和平工作的なものは当初から失敗に終る命数しか無かったのであろう。



 だが昭和十六年夏、禅寺洞の満州旅行に、僕は門司から大連まで同船している。その前後のこ

とであるが、すでに「天の川」を離脱し去っていた白虹と禅寺洞との間の和平交渉を、今度は僕が

提唱し、禅寺洞も強くそれを希望した。そのころの「天の川」はかなり淋しいものになっていたし、白

虹が復帰して呉れたらなアという僕のおもいがそこにあったのだが、時代の暗転の中で白虹に会う

機会も無かったし、たとえ機会があったとしても、そんな工作が成功するはずがも無い。その工作

のこと誰も知らない。白虹自身も知らない、北垣一柿も知らない。誰一人観客の居ない劇場での、

まこと淋しい僕のパントマイム。調べてみると、昭和十二年白虹はすでに主宰誌「自鳴鐘」の発行

に踏みきっていた。



 白虹が西東三鬼と共に禅寺洞の銀漢亭を訪れ玄関払いをくったのは、もっと後のことであろうか、

その話戦後それもずっと後で白虹自身から聞いたことであるが、それが昭和何年のことであった野

か時代考証に暗いぼくには解らない。

 只驚いたことに、あの有名な、


                水枕ガバリと寒い海がある    三鬼

の句は昭和十一年の「天の川」禅寺洞選でそれが発表されているという事実だ。

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  1. 2006/01/31(火) 06:59:32|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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たばこは灯台怒涛かぶる日つづきます★涯子


         写真 「ベニバナマロニエ」 2005.5.10 七沢森林公園にて撮影

                      

                       中之章  (2)


 25P            北に海鳴りトラックひと日ころがし来て


                たばこは灯台怒涛かぶる日つづきます

      
                都会の川端わかい人のこどくな体操


 26p            どぶさらえ船沖ゆくときはキリンに似る


                噴水の壁すべる玉「すべて暮れよ」


                陰湿都市のミロクボサツもおがみます

  1. 2006/01/30(月) 08:34:49|
  2. ■ 戦後俳句作家シリーズ36 『阪口涯子句集』
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (14)


            黒の回想 わが俳句遍歴 (14)


 2.11(祝日)
  
 二週間余りの曇天と小雪が終って今日はやっと青空がみえる。北九州西九州の冬の気候は山

陰地方のそれに似て全くうっとしい限りで南国というイメージとは全く異った暗い空のもとにある。

その間ぼくは「うさぎ小屋」でふるえ乍ら、旧友「北垣一柿論」を「鋭角」に書き、又旧友佐伯信太郎

の句集『火口湖』に長い序文を書いたりしてむしろい忙しかった。


 今日は青空、禅寺洞の続きを書きたい、書かねばならぬ。北垣一柿、片山花御史に借りて来た

文献によって、このあたりは書く。
     
   昭和九年(1934)

              アドバルーン冬木はづれに今日はなき


という禅寺洞の句を秋桜子が論難したことに端を発して「天の川」と「馬酔木」との間に論争が繰返

され、その論争は「天の川」の

              血に痴れてヤコブの如く闘へり    神崎 縷々


と「馬酔木」の一作者の


              喀血の蚊帳波打つてはずされぬ


この両句の優劣論争で沸騰点に達した。そのことは無季有季論争の発端としてすでに歴史的でも

あろう。禅寺洞が「私は俳句に無季を承認します」と発言したのはこの年である。そのころ「天の川」

編集は横山白虹からすでに棚橋影草の手に移っていたのであろう。白虹が上京して「馬酔木」「天の川」両

誌間の和平工作を行ったが、それが遂に失敗し、白虹自身もその頃から「天の川」離脱への意志

を強めたらしい。

 そのことは「俳句研究」昭和四十七年三月号の「棚橋影草の一面」という白虹の文章に詳しく書

いてある。白虹が新興俳句運動の発展のためには両誌の提携が必要であるとして秋桜子を訪れ

て説得し、その諒解を得た上で「天の川」の説得にかかったが、「天の川」の皆が難色を示したとい

うことになっている。
   

  1. 2006/01/29(日) 08:56:46|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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鴉のジャズの赤い口みな宙にひらく★涯子


                              写真 「山茶花」

                        中之章  (1)


 
 22P            青い花無く粘土の夏の夜学生 


 23P            日本海溝から隆起しかたまるまんじゅさげ


                鴉のジャズの赤い口みな宙にひらく


                から松は幹ばかりカアと鴉をなかせていた



 24P            あまりに青い北の廃港こわれた人


                誰も居ない芝生が青い熊となり


                煙突(煙だし)焚く汽船の抒情空気凍り

  1. 2006/01/28(土) 08:19:34|
  2. ■ 戦後俳句作家シリーズ36 『阪口涯子句集』
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (13)


                   写真 「温室の花・ゲンペイクサギ」



        黒の回想 わが俳句遍歴 (13)
  
     
1980.1.12(土) つづき                                 

 さっき大連の「鶉」内部に於ても、金子麒麟草は退役軍医中佐であり関東州庁下の文化部長で

あり、上の句を忘れたが中下は「寒夜机上の戦陣訓」という北満の兵士作か将校作か知らないが

そんな風の俳句を日本一の名句だと云うのであった。彼の配下の俳人は、ぼくの、


             蒼穹に人はしづかに撃たれたる

             草原に人獣はすなおに爆撃され

などのかなり以前のノモンハン事件当時の句を持ち出して、「すなお」や「しづかに」が怪しからぬ

と喰ってかかるし、ぼくは往診鞄に、いつもチリ紙やタオルをひそませて、ひっくくられてもいいよう

に要心をしていた時代であった。ぼくも不用意な作品を発表したものであったが、そのころ未だ若

かったし、緘黙の美徳は猪のごとく知らなかったのだ。



 昭和十六年だと思うが郷里の父の病気及び病死などのために冬と初夏に二、三回ぼくは九州に

帰っている。そして禅先生や棚橋影草や北垣一柿らに会っている。九大の内科講堂の入り口でパッタリ会

った一柿には「涯子さん用心した方がいいですよ」と云われ、同級生だった影草は「涯子は

年々句が若くなって困る。俺を見習え」と短冊を一枚書いてくれた。彼は生理学の助教授であったが、


                
             老教授に潮騒にぶき日つづく


 彼はすでに殆んど盲目であったが、短冊の両端を左手の指で撫でさぐり乍ら短冊一杯に句を書

くのだが、それが却って面白い字になっていた。



 影草や一柿などのことは、何れこの回想録の中えそのうち触れることであろうが、この句を手本に

せよと影草に云はれても、そうしようかという返事はぼくには出来なかったので、せいぜいおとなし

くするよと返事したように記憶して居る。


 禅先生に、その冬の九州帰りのとき、九州が余り暖かだったので、ぼくは着ていた毛皮のチョッキ

を脱いで進呈したが、それは白色の羊の毛皮だったと記憶するが、釣りの好きな禅先生は釣りの

時いつもそのチョッキを愛用してそのチョッキに「涯子」と命名し、「おい涯子を持って来い」二女澄

子さんに云っていたらしい。そのことは戦後澄子さんから聞いた話だ。ぼくの作品に関しては禅先

生は先刻書いた「も少し線の太い俳句は書けないものかネ」と云っただけだった。

  1. 2006/01/27(金) 08:38:55|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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ぼた山とどろんこ河ぼく山脈を越えてきたが★涯子


      写真「松虫草と花蜂」 ・・・Nomさまから「ハナアブ」だとのご指摘あり。謝謝!


                      LONG之章  (7)       

   

 20P           ぼた山とどろんこ河ぼく山脈を越えてきたが


               汽船のみえない海しんしんとぼた山を尖らせる


               地すべり地帯さざん花が白い炎をあげていた


 21P           木の股に藷がらがラクダのようにかかっていた


               藷がらラクダそれが木枯らしをひるもよるも

  1. 2006/01/26(木) 08:07:46|
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (12)


                  写真「草苺の花」2005.4.16 松田山にて撮影

        黒の回想 わが俳句遍歴 (12)
  
     
1980.1.12(土)                                  ウサギ小屋にて

 当時中野正剛という有力代議士、多分玄洋社の流れをひいていたその代議士は禅先生のイトコ

とか聞くが、その代議士が内務大臣を説得してりして「天の川」は新興俳句弾圧事件を軽傷程度

で通過した。
 
 鹿児島の僚誌は弾圧検挙されたし、禅先生や片山御史らは幾度も幾度も警察に呼び出さ

れて調べられたが、結果はとにかく軽傷ですんだ。平田とかいう調査官が東大出身の物解りのい

い人であったことにもよろうし、中野正剛代議士の尽力にもよろうし、禅先生の少しばかり右寄りの

性格にもよる結果でもあろう。
 


 当時の「天の川」に「社会主義的リアリズム論」を連載していた山口草虫子(聖二)が朝鮮に居り、

「北風列車」的厭戦俳句を書いていた涯子が遠く大連にいたことも捜査の手がとどかなかった一

因をなしたということもあろう。

 

 敗戦の前年であったか、当時、満州で一誌、大連旅順の関東洲で一誌と俳誌は統合されていて、

ぼくらは大連で「鶉(うずら)」という統合俳誌を出していた。有季無季各派すべてがその俳誌に雑

居したわけだが、その俳誌の有季選をウサギ小屋にてが、超季選を内田慕情と僕と共選でやって

いた時代のことだが、「俳句研究」で大野林火が「鶉」には不純分子がいる。評者は俳句の名に於

て忠告するのだがと言って、その不純分子に三名の新興俳句作家があげられたことがある。



 内田慕情と京大俳句の河内俊成と僕の三人であった。俳句の名に於て、芭蕉の名に於て、或い

は天皇の名に於ては・・・・・もう沢山である。何うして自己の名に於て、その評論を権威づけないの

であろうか。
 
 ワビといい、サビといい、コッケイというそれは、その時代時代に於ての俳句作家がなしとげた、い

はば抵抗の表現であったと僕は解している。その時代時代に於て、それはまた、地上の倫理と奥

深い所で結びついたものでは無かったかのか。

  1. 2006/01/25(水) 08:06:43|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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おどりつづけるくろい汽船は愉快な奴★涯子


                           写真「ベニバナトケイソウ」   


                     LONG之章  (6)
                   

 18P           おどりつづけるくろい汽船は愉快な奴


               野菜籠を酔いどれを吐きだすボロボロ汽船


               甲板の耕耘機雲にくちづけてはなれる

 
 19P           遠くにちらばり赤血球より淋しい浮標(ぶい)


               藷がささやく「おれたちは帝国海軍を知っている」


               
               藷がささやく「おれたちは結晶だ俺たちはフォームだ」

  1. 2006/01/24(火) 08:37:20|
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (11)


                       写真 「梅花空木」 2005.5.3 撮影


           黒の回想 わが俳句遍歴 (11)
  
     
     1月6日(日)ーーー雨 つづき

 昭和十二年五月末僕は郷里にあずけていた病気の妻と子供二人を連れて大連に帰った。満三十三歳。

 その年の七月に盧溝橋事件がでっちあげられ、それが日支事変太平洋戦争へと拡大した。そし

て「天の川」が仮に右へ右へと走っていた時代、僕はそれも仮にだが左へ左へと走っていった。

 

 其のころ俳句弾圧事件もあって高屋窓秋も仁智栄坊も満州へ逃げて来ていたことは一寸前にも

触れたが、僕らは大連で「天の川」の井上生邑(あとでの沖電気社長、死亡)平湯催青、島添哲朗(あと

で沖電気重役)「青玄」前身の「太陽系」の清水顕(あと南方にて戦死)「京大俳句」の河内俊

成(現三角点同人)「土上」の武田勝利(引揚五死亡)満鉄機関誌編集人の富田鷹夫(終戦直後

新京にて病死、現在の三木卓の父)途中から這入られた内田慕情などと共に大連で親興俳句グ

ループの会をつくっていた。

 

 時には新京から高屋窓秋、仁智栄坊もその句会に出て呉れた。だからその会は日本新興俳壇

の一縮図と云えなくも無かった。勿論それは後期或いは末期の新興俳壇に就いてであるが。内地

のどこかの雑誌で「天の川とは違った方向に涯子は独りで走っている」とか「涯子をそのままおいて

いる天の川も天の川なら脱退しない涯子も涯子だ」といわれたが、ぼくには「天の川」の視野をも少

し拡げたい意図はあったにしても「天の川」を脱退する積もりなど毛頭無かったし、それより禅先生

は懐(ふところ)のふかい人であった。

 

 それを寛容と忍耐という人もあるが、僕を置く寛容はあっても忍耐してまで「天の川」に僕を置い

たとは到底考えることは出来ない。

  1. 2006/01/23(月) 08:07:01|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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北風よ翼おさめよみどりの令嬢も咳している★涯子


             写真「山吹」 2005.4 松田山にて撮影


             LONG之章  (5)   


 16P   北風よ翼おさめよみどりの令嬢も咳している


       朝だコッペだ黒衣満ち鐘ごんごん鳴り


       はたらく黒衣が黒水晶となりゆく氷雨


 17P    クレーン傾斜して白髪はえているかもしれぬ


       海・白堊・彫ふかい顔の浮浪児を知っている


       浮桟橋とも上下し島へのボロボロ汽船

  1. 2006/01/22(日) 08:25:59|
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● 黒の回想 わが俳句遍歴 (10)


          黒の回想 わが俳句遍歴 (10)
  
     
     1月6日(日)ーーー雨 つづき

 ぼくの句は当時のジャズを新しく見直したいその願望や発見を問うつもりであったのだが、早速、

禅先生にやられてしまった。「ジャズ清く」はよろしい。だが茶房は白いものと決まっている。「白い

茶房」とは何事だと。僕はなるほどと禅先生の眼に感服した。ずっとあとで又考えた。禅先生は茶房

は白いものと決まっていると云ったが、実は、こんな場合「白い茶房」で逃げたら句が軽くなってし

まう、句全体がこれではぶっこわれる。お前もっと勉強せよと禅先生は云いたかったのだなァと。片

倉ビル六階での件はそのすぐあとの出来事である。そのころ又、家の事情などがうまく行かず心弱

く不眠の夜が続いていたせいか、

          
           弱虫に夜光時計の闇ちさく

           弱虫はシーツが光る夜を知った

 などの句がある。

               *実験室よさらば*

           
           実験室古りぬピペット光垂れ

           けだものの臓腑磨りし日日に背き

           木椅子佗し重湯煎(じゅうとうせん)を唄はする

           たそがれは試薬の列にのびて来る

 
 この一連、医学の実験室など知らない者にとっては糞面白くも何ともないと「天の川」の内側から

たたかれてしまった。

  1. 2006/01/21(土) 07:44:50|
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黄海の白墨よりも淋しい灯台☆涯子


                 写真「カロライナジャスミン」 2005.5.3 撮影

              LONG之章  (4)         


 14P   黄海の白墨よりも淋しい灯台


       鵯輪舞氷雨の虹をはげしく懸け

    
       鵯西方から来たか綿服を着て


 15P   娼婦の雨靴の美しさいま日本の梅雨です

       八月のカマキリを青といおうか孤といおうか


       黒薔薇のかなしさは軍用機より翼張って

  1. 2006/01/20(金) 07:37:37|
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (9)


            写真 「空木の花と麝香揚羽」 2005.6.5 丸太の森にて撮影


            黒の回想 わが俳句遍歴 (9)
  
     
   1月6日(日)ーーー雨 つづき

            しんしんと氷雨の音に南京鼠(マウス)生く

            スチームは奏で南京鼠(マウス)は恋を得ぬ

            前肢もてものかかえ喰む南京鼠(マウス)あわれ

            硝子器の南京鼠(マウス)の母子に綿をやろ

  今一寸おくめんもない感じだが、僕の第二の処女作だ。お前にはヒーメンが二つあったのかと

からかわれても致し方がない。露出癖のある僕にも第一のホトトギス流のヒーメンをここに書く勇気

は持てない。その例会の選で、

                  禅寺洞選

            スチームは奏で南京鼠(マウス)は恋を得ぬ

            前肢もてものかかえ喰む南京鼠(マウス)あわれ

      
                  一柿選

            ささやかな南京鼠(マウス)の母子に綿をやろ

 とこれが昭和十二年四月号の「天の川」誌に十年振りで出た涯子の名である。一柿選の分の作

品の冒頭は「硝子器の・・・・・」とばかり覚えていたが、「ささやかな・・・・・」で一柿がとり、それが

「天の川」に出てるのならそれが原作であったとしなければならぬが、冷やかな硝子器の中で小指ほ

どの無毛の芋のようなマウスの赤ん坊とその母。「硝子器の・・・・・」方がぼくは好きだが原句は一

柿選の通りとしなければなるまい。



 その席で禅先生はほめてくれた。「今日は一柿も影草もカタ無しだな」と。禅先生という人は滅多

に人をほめる人ではないが、これが最初で最後の僕に対する「オホメコトバ」だった。僕を俳句の

世界によびもどそうとする禅先生の謀略であったかも知れないし、意固地な僕は禅先生もまた「御

世辞をいう人だったか」とも思った。次の句会で、


           ジャズ清く白い茶房を渡りゆく

 というのを出した。あの頃のジャズの世界は可なり騒々しかった。ジャズと云えばぼくはガーシュ

インのラプソディ・イン・ブルーを今でも想いだすのだが、今日のジャズはすでにクラシックと競うほ

どの高さに到達してもいるようだ。

 数年前岸本マチ子と共に調布の井上光晴を訪れたとき(彼はジャズ音楽レコードの蒐集家だが)

彼が聞かしてくれたジャズ(名前は忘れたが)はそこいらのクラシックよりずっと澄みきっていた。ま

さに「ジャズ清し」。

 

  1. 2006/01/19(木) 07:53:57|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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月に濡れた少女「ピーナツ買って下さい」★涯子


            写真「河骨」 2005.9.23 湿生花園にて撮影




              LONG之章  (3)         

 12P   月に濡れた少女「ピーナツ買って下さい」


       睡蓮のするどさぼくのうちがわ磨滅しつつ


       ゴム靴月に逆立てて蛙の装飾音符の夜だ


 13P   北風(きた)がばりばりガラスの東支那海をこわす


       せきれいのうたを愛し事実はコントラバスのように妻へいかる


       風花くろかみと黒い甍を愛し舞ふ

  1. 2006/01/18(水) 07:48:13|
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (8)


          黒の回想 わが俳句遍歴 (8)

     
     1月6日(日)ーーー雨

 さきに云ったように、ホトトギス流の俳句を九大俳句会に行って大正十三年頃から数年続けて、

あとすっかり止めてしまった。その頃の作品は二、三今でも覚えてはいるが、ここで発表する勇気

は全然無い。で、昭和十二年の第二の出発から話を始めよう。あれは春だ。博多の呉服町の街角

に狭くて高い片倉ビルがあった。その六階にビールをのみに僕はひとりで登っていった。研究室

での僕の研究に一応めどがついてホッとした安堵感もあったのであろう。

 

 その六階の扉を押すやいなや、「オーイ、ジャズ清し」と学生服の一団からギャグ的なビール的

なコーラスをあびせられた。



  そこに巣くっていた九大俳句会の学生達古城朝彦(現在の澄子夫人、禅先生二女の夫)福岡徹、

片瀬わらびまでは今も思い出せるが、そこに鹿児島で現在「形象」をつづけている前原東作がい

たか何うかは想い出せない。前原はその後ずっと「天の川」編集にたずさわっていたらしいが、昭

和十六年だったか、旅行で大連にやって来て僕の家に一泊した。

 

 そして、もう危険だから、俳句のペンを折りたいと僕が云出だしたら、大連までやって来て、そん

な話を聞くなんて・・・・・と肩をおとして別れて行ったがこれはあとの話だ。昭和十二年一月発刊の

高屋窓秋の『河』がぼくの医化学教室の隣の生理学教室に居た棚橋影草の所に送られて来た。



 その『河』にそそのかされて、俳句に再出発した僕はおそるおそる「九大俳句」例会に出席した。そ

のころすでに眼が悪かった影草が出席したか何うかはっきりしないが、一柿がそのころの「天の川」

のリーダーシップをとっていた頃だ。それは昭和十二年一月二十一日ブラジレイロという喫茶店だっ

たと一柿は昨秋教えてくれた。僕は実験室の作品を出した。

  1. 2006/01/17(火) 06:17:19|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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こんなに青い村落のいちまいの石の日曜だった★涯子


              LONG之章  (2)         

 
 10P   こんなに青い村落のいちまいの石の日曜だった


       こおろぎのうたと風がかの墓碑銘を洗うのでした


       夾竹桃のアンブレラ廃墟の罪のふかさに燃える


 11P   雪の夜のくろいコーヒーバズーカ砲も匂います


       娼婦のドレス清潔に漂白されたこの荒い天の縞


       秋刀魚の青煙生きている限り垂直にのぼるよ

  1. 2006/01/16(月) 08:45:13|
  2. ■ 戦後俳句作家シリーズ36 『阪口涯子句集』
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (7)


 
       ●タイトルの涯子句  戦後俳句作家シリーズ36・阪口涯子句集・砂之章 より抄出
                     
          
           黒の回想 わが俳句遍歴 (7)

     1月5日(土) つづき 
 
 あの放送部の技術や人材はあとの赤坂の「東京放送」に引き継がれ

たと聞くが、そして安東から半ば徒歩で奉天に出て秦皇島から帰国した弟の妻は現在厚木で脳

腫瘍のため明日をも知らぬ命らしい。その子供の夏彦はおじいちゃんのために株式の復讐戦を

一度はやるんだと力んでいるらしいが、そのこと涯子にもその気がしないわけでもないが、おじい

ちゃん即ちぼくの父の大正時代の十何万円は今日の億単位の円であろうけど、金色夜叉になりた

くとも、それは夢の又夢。
 
 

 分相応にウサギ小屋でつましく暮らすしかない時代ではないか。そして少し淋しいけれどこの玄

界に面した伊万里湾の突端の小島に来て孤りで温泉にはいり、孤りで持参のオンザロック用の冷

酒をのみ、余り乗り気でないこの雑文を書きひそかに反逆のまなじりを立て、他人の自由を余り傷

つけないで・・・・・・・まあその位でグッドバイしようよ。今日は、地図を見れば「たつのおとしご」に一

寸似ている周囲10キロ、人口3700のこの島をここの教育長がドライブにさそってくれた。

 

 彼は長崎新聞のぼくの投句者だし、暖冬無風の雑木林の向こうには元寇の役の鷹島が横たわり、

又佐世保の九十九島に良く似た小さな島たちが青い凪の中に声をたてずにちらばっていた。か

つてはここは石炭の島であったはずだ。ドル買いの責任を一人背負って佐世保の親和銀行を辞

めたI重役はここで炭鉱主をしていたが事業や家族の件に行きつまってその人は首つり自殺をし

た。そして友人兼医師のぼくがその最期をみとどけた。ボタ山が今日もいくつもラクダ色して残って

いた。 今度はそこを半ばけっずってLPGガスの基地にするとか。激しい時の流れだ。

  1. 2006/01/15(日) 08:47:13|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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落日にこたえる落日いろのじゅうたんなし★涯子




戦後俳句作家シリーズ 36『阪口涯子句集』 転載 (1)

    
                 目次
 
   LONG之章 45句   1950年ー1958年(昭和25年ー昭和33年)

     中之章 45句   1959年ー1968年(昭和34年ー昭和43年)

    砂之章 110句   1969年ー1975年(昭和44年ー昭和50年)


               解説 井上光晴

                 阪口涯子著作ノート

          
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                 LONG之章  (1)

 6P    落日にこたえる落日いろのじゅうたんなし


 7P    こんとんとこんとんと光るのは深夜の西瓜


       ひびわれた地球にわたしの蝶も大破して
  
  

       国際橋寄り男女のジャズに樹蔭もなや


       
 8p    門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線のかなしい街


       ぼろんとギター長子夢なく罪もなし


       北風と合唱する蹄鉄ときどき孤独ひからせて


 9P    病めば孤独な烏原色の街の上空に身を貼りつけ


       海峡はいちまいのハンカチ君の遺髪ぼくの遺髪をつつむ


       さくら散りさくら散りしきジェットの十字架の下だ

  1. 2006/01/14(土) 07:35:57|
  2. ■ 戦後俳句作家シリーズ36 『阪口涯子句集』
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●黒の回想 わが俳句遍歴 (6)


        ●タイトルの涯子句  戦後俳句作家シリーズ36・阪口涯子句集・砂之章 より抄出
                     写真 ヤマボウシ
          

          黒の回想 わが俳句遍歴 (6)

     1月5日(土) つづき 

 その後ぼくが昭和十年から十二年なで九大に帰学したこともあるが、弟はとんとん拍子で自分の水を泳ぎ、その少しあとだが満州国中央放送局の放送課長になり、慶応を出た演出部の糸山氏ら

と組んでラジオドラマを流したりしたいたが、あとでその放送部に内地を避けて高屋窓秋やに仁智栄坊も来たし、これは満鉄からの転向だと思うが森繁久弥もそこに居た。

 
 窓秋や栄坊とは大連でよく会ったし、弟も少し俳句をやっていたが、敗戦前二、三ヶ月の頃、中央放送課長の職は参事でなければいけない。僕の弟はまだ若くて副参事であったので安東の放送局長に廻されてしまった。

 
 「もう危ないからお前一人で行け、妻子は新京に残せ」と僕は云うのだが「兄貴みたいに云ってたら戦争なんて出来はしない」とそのころ強気に転じていたらしい弟は妻子を連れて安東に行った。

やがて敗戦。長と名のつく日本人は鴨緑江対岸の朝鮮の新義州の監獄にソ連軍のために投獄されてそこで発疹チフスのために弟は死亡した。

その便り、逓信関係の人から電話で聞かされたが、
敗戦直後の混乱の日日、無蓋車で襤褸をまとった栄養失調の日本人が奥地からぞくぞくと大連へやって来ていた、そんな大連に居たぼくには骨をひろうことも何うすることも出来なかった。

かつてのマルクスボーイの弟は赤軍の手によって鴨緑江の河畔でその生を閉じた。兄弟の中で一番ぼくが信頼していた弟。

  1. 2006/01/13(金) 08:46:44|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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解説 5


   
   
   ★ 阪口涯子句集・解説・井上光晴 (5)完

 「リズムは思想だ」という考えには、リズムこそ思想に通じる一種の甘さがあり、にわかに頷き難いのだが、涯子の実作はむしろそういう言葉で拘束できぬ文学としての自由な呼吸が脈打つ。

    
           海辺にてあしたのことも解りますの

           からすはキリスト青の彼方に煙る

           胸にラッセル逃亡の一獣群写り


 海辺に佇む人はきっとやさしさのあまりに明日を望んでいないのである。黒い十字架と化したからすは、裏切者たちを嘲笑するかのように、ただ一羽離れて中空の青に消え行く。

 それらはゆるぎのない情景であり、優に小説一篇の秀作に比肩し得よう。にもかかわらず、これをも文学的過ぎると批評すれば、それこそ散文作家の現代俳句に対する偏見であろうか。

 つまり、どのようにも解釈できる方法と表現から、ついに逃れられぬ運命を、阪口涯子もまた背負っているといいたいのである。からすの句について「想念の色調」を見る金子兜太のみごとな鑑賞をわれわれは知っている。

<老ゲリラ無神の海をすべてみたり>を「非情を知り尽しての感受」だと受
け取る堀葦男の解釈は、それなりに筋が通っていよう。

「砂」を主題にした作に対する八木原祐計の批評も反撥を覚えない。しかも、なお私は潟に身を果つるという涯子作への印象を拭い去ることができないのだ。

涯子の文学精神は代表作を遥かに越えて「青の彼方に煙る」ものではないか。


             蒼々と猫族翔べり俺の旗

  1. 2006/01/12(木) 08:28:17|
  2. ■ 『阪口涯子句集』 解説・井上光晴
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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (5)


           写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて




             ●黒の回想 わが俳句遍歴記(5)

           

     1月5日(土)   

 いまこれを書いている所は玄界に面した伊万里湾の突端の福島という島だ。長いピンク

色の鉄橋で伊万里市とつながっている、そこのつばき荘という国民宿舎だが温泉が湧いている。

カルシウム泉らしが箱根のどこかの温泉に水質が似て透明でなだらかだ。昨日から来ているのだ

が今は朝の太陽が空に降りそそいでいる。


 
  回想録の中で一番いやでたどたどしい所を只今通過中なのだが、そうだ二十代の末から三十二

歳位まで(昭和三、四年から昭和十年まで)ドストエフスキーだったら「貧しき人々」をとうに卒業し

ていた時代だったかも知れない。平凡な涯子はまだ郷里の家の破産の後始末に奔走し、小説家

になるといって早稲田の英文科に通っていた弟にも加勢をしていたが、それでも英国のH・M・V

や独乙のポリドールの原盤などを名器クレデンザにかけて東京外語を出た英語の先生などとベー

トーウ゛ェンやモーツァルトやショパンやドビュシーなどなどを楽しみ、何かの研究の名を借りて、京

都に遊び東京に遊び、学生時代の苦(にが)さを少しずつ中和した、そんな束の間の安らぎの時

間が流れていった。

 

 早稲田を卒業するという弟から満州に何か文化的な職場はないか捜して呉れと云って来た。「べ

らぼうめ!この荒涼たる満州にそんな甘い仕事があるか、東京で捜せ」と叱ってやったら、「いや

文化的とは自分の言いすぎであった。そう怒らないで何か適当な職場をたのむ」と弟は辞を低くし

て再び頼みこんで来た。高橋ダルマ大臣の不景気時代であった。弟は牧師さんの宅に下宿し、そ

の時はその牧師の娘と仲よくなっていたらしい。

 
 
 仕方がないのでそのころは未だ試験放送中であった大連逓信局の放送部に入れてもらうことに決

めたのだが、そして弟は単身で大連の僕の旧露街の赤レンガの家にころげこんで来たのだが二、

三日たつと「兄貴済まないが僕は卒業していない」「何うしたんだ」「実はブタ箱におしこめられて

卒業試験が受けられなかった」

 仕方のない弟め、僕は放送部に採用延期を頼みこみ、再び弟を東京へ返した。九月には弟は牧

師の娘をつれて威風堂々と大連に乗りこんできた。(つづく)

  1. 2006/01/11(水) 08:21:02|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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解説 4


         
   
   ★ 阪口涯子句集・解説・井上光晴 (4)


 砂之章はひときわすぐれて虚無的であり、フォークナー流にいえば、響きと怒りにみちあふれている。
 
求めようとしないからこそ、神は答えないことを、涯子は知りつくしている。

  
          どろんと赤道直下ちっとも神答えず

          首かざりのような夜景のひとり仕官

          
 「ちっとも」は、地球の重さをはかろうとする不逞な涯子の計算である。彼にとっての慄えは、神の存在ではなく、醜と美を紙一重にしばる現実そのものである。


           旗に咳し砲に咳して白瀑布

           れんぎょう雪やなぎあんたんとして髪だ


 <れんぎょう雪やなぎ>を例にあげながら、涯子自身、創作の根底となるべき  方法について語っているので、少し長くなるが引用してみよう。
 

 ぼくの口語表現というのは、さっきもいいましたが、ぼくの血液に近いようなものが前からあった、ということが一つ前提にあると思うんです。
それから、長い口語俳句のトンネルを通って、全部口語でやろうというような野望をいだいて、口語俳句の世界で悪戦苦闘して、

結局無駄な努力を十数年重ねて、実りなきものを実験したというその結果が、しかし、ある意味では自分のプラスにもなったと思いますし、なるだけ口語的な表現というか、発想というか、表裏一体のそういうものになって、

そして仮に<れんぎょう雪やなぎ>という、あれは、リズムは、九七三ですか、九七三というのは合計したら、十九音か、 十九音というのはそれほど長くはないが、リズムは五七五原型から、

かなり離れたという感じがあるから、ほかの人はリズムの堕落だというかもしれないけど、ぼくは、自分自身の身についたものでなんの抵抗もないですね。ぼくにとっては、リズムとは内側にあるものであって、外側にあるものではない、ぼくのリズムはぼくだけのリズムであって、それはもうすでにフォルム

というよりはむしろぼくのスタイルだと、そういう風な感じなんです。スタイルといういい方のもう一つ内側には北川冬彦だったですか「リズムは思想だ」という、そういう考え方に今立っているわけです。

<れんぎょう雪やなぎ>の句だって、自分としては、スタイルと、大きい意味の思想と表現が一体となって、結局自分自身であって、五七五からはるか遠ざかったという抵抗は全然感じていない。

ぼくのいまの作品、みんなそうだと思っているんです。

  1. 2006/01/10(火) 14:25:10|
  2. ■ 『阪口涯子句集』 解説・井上光晴
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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (4)


          写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて




             ●黒の回想 わが俳句遍歴記(4)
 
   1980年1月4日(金)つづき

 医学事始は記憶記憶記憶記憶。フォルマリン漬けの屍体(ライヘ)の臭いは下宿の夕食の刺身

に乗り移って刺身など小一年は食べられたものではない。

 
それにぼくが熊本の高等学校時代の半ばに実家の父は、東新などの株式の大暴落で見事に倒産していた。そして赤札の中でぼくら一家は暮していた。



 父の遠い親類が福岡で弁護士をして、当時の市会議長をしていて、その人の別荘が、名島(昔の多々羅浜辺だ)にあって、そこに置いて呉れるという話がついて実はぼくは九大に行ったわけな

のだが、話しがこじれ出すと切りがないもので、今度はその別荘の番人が他人を置いて世話する位なら自分がそこを出る、そんな約束はしていないと、この人も変り者だったのだろう。


その話はオクラ入りになり、何とかしようといってくれたその遠縁の弁護士(間もなく病死したが)の話を断り結局はルンペン。

 

郷里の父の知人や縁者に借金して、辛うじて好きでない医学部を卒業はした。長崎県庁にも

SOSを発信したが、役所という所は融通のきかぬ所で、書類には医学部のお前の成績表が要るという。

中学や高等学校には成績はあるが、大学には及第落第があるばかりで成績は無いのだと何度かそう弁明したし、中学や高等学校の成績は送りはしたが、県庁側はそれがルールだからといって到頭奨学資金は貸してくれなかった。



 現在のようなアルバイトなどは何もない時代であった。だからいろんな借金をかかえ、又、

ある人から逃げるために促成結婚をして学究時代を短く端折って大連にとび出したわけだ。<ろくでなし

の医者涯子><俳句などすててしまった涯子> (つづく)

  1. 2006/01/09(月) 15:53:45|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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解説 3


          
   
   ★ 阪口涯子句集・解説・井上光晴 (3)


 中之章四五句もまた、「青い花無く粘土の夏の夜学生」という慕情に似たやさしい叫びに包まれている。
 
           ふかい木目の垂直の家友ら消え

           学虚しそれから電車走らせる

 燃焼しつくした作品であろう。だが涯子の胸奥にはつねに、燃えつきることのない「こんとん」としたものが沈殿している。

彼の作が突如として、殆ど信じられない位の青春の焦燥感にさいなまれる
のは黒々とした胸のなかのつぶてを、一気に放とうとする時だ。

 「エンタープライズの橋」五句は、涯子の句が歴史の階段を、上昇も下降もならず、ただたちつくすのみの姿である。作品もまたそれ故に身動きもできず、熟していない。



          若い樹の花満開の泣いている橋

          ドストエフスキーの斜めな灯柱橋蒼ざめ

          凍海のくやしい過去の自分たち

          白い杖のまわり鉄片ふりつづける
 
          黒潮はてる街の無名なしずかなデモ


 黄沙すすりなく全く個人的な男、という激しい想いを彼方に配しているのだから、一層エンタープライズへ接近する短絡さが目立つ。

 流浪の果て、彼は砂丘に歩匍いつくばう草花をいつくしみながら海原を望むが、握りしめようとすればする程、砂は指の間から落ちこぼれる。

無残な時刻はすでに足許までしのび寄っており、つかみかけたかに見える太陽は蒼ざめるのみ。神は「ちっとも」答えないのである。

  1. 2006/01/08(日) 18:02:12|
  2. ■ 『阪口涯子句集』 解説・井上光晴
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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (3)


           写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて




             ●黒の回想 わが俳句遍歴記 (3)
 
   1980年1月4日(金)つづき
 
 涯子よ、お前何を話す積もりなんだ。だから回想録めいたものはご免だとはじめから言っていた

のだ。ぼくが妻と一時別居したことまで書かねばならぬようになるではないか。その話止めるよ。そ

の小母さんは戦後間もなく死んだよ。

 
俳句の話に一寸戻るよ。九大医学部に昔々あった有苞(アルツト)会(アルツトは独乙語の医者)

が再興されたのが大正十三年頃だ。横山白虹たちがそれを興した。二級下のぼくらがそれに合流

した。その時の先生が吉岡禅寺洞、清原枵童(「木犀」という俳誌を福岡から出していた)、客分に

高崎烏城(筑豊の炭鉱主で矢張り俳誌「黒土」をもっていた)と久保猪之吉(九大耳鼻科教授)そ

の令室の久保よりえ。

     管草の一本ゆえの丸木橋   よりえ

     京の薊浪速の水によみがえれ よりえ

 そんな先輩やぼくら学生で九大俳句会は構成されていた。この外に富安風正、お寺さんの河野

静雲など居られたが九大俳句会には全く関係はない。が何れにしてもホトトギス派としての九大俳

句会であった
 

 
大正十五年(昭和元年)ぼくは九大を居酒屋のはした酒のみながらいい加減な勉強で卒業した

が、そしてホトトギスも漸く四S時代に這入ろうとしていたが、他人の苦痛を苦痛としない、大宮人

的というのか、ブルジョアあるいはプチブル的というのか、そんな花鳥諷詠の世界が何うしてもぼく

にはなじめなかった。

 

又ぼくが高等学校時代に習った独乙語は、たとえばウインド(風)がブレーエン(吹く)し、ブレッテ

ル(木の葉)がゾイゼルン(そよぐ)する、そんな艶やかな独乙語であったのが、解剖学の例えば

後頭部の突出部がブロッペランチア・オクチビターレ・マヨールであったり、鼻骨の小孔が何であっ

たり、一つ一つに名前が付いていてそれを記憶せねばならぬノーメンクラツール(記載学)という奴

がぼくには苦手であった。

  1. 2006/01/08(日) 00:11:48|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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解説・ 2


                 

    ★ 阪口涯子句集・解説・井上光晴(2)



             海も河もしんしんと凍りわが喪章      
      
             ひと葬りぬ氷片浮ける蒼海のほとり

             にんげんの死蔓草のごときものをのこし  ・・・・・「凍河(二)」



 と、 「辺陲て(二)」を並べてみよ。


            碧落もしんしん凍る木の下よ

            冬天のもとの木椅子に寄らんとす

            施療行冬木の繊さ天に描かれ

 
 喪章にこめられた感傷をとるか、それとも木椅子の固さをよしとするか。
作としてはむしろ木椅子に及ばず。氷片浮ける一瞬、作意の様式を思うは、矢張り「リアリズム」に災いされるか。・・・・・(略)

(1957年秋ノート)

 それでいて、58年春に発表した『ガダルカナル戦詩集』の表紙に、「辺陲にて」一連の句を使用しなかったのは、木椅子の硬質をあえて避けたのかもしれない。


 「昭和十三年」より「昭和二十四年」まで、いわば遠く去り行く漁火を見送る孤独者の憂愁こそ、この句集に点滅する灰褐色の影をひきずる標灯である。



 LONGの章の冒頭、

       
            落日にこたえる落日いろのじゅうたんなし


 と、くちずさむ詩人の目の冷たい痛ましさをみよ。


            門松の蒼さの兵のズボンの折り目の垂直線のかなしい街

 定型も反定型も非定型すら無視せざるを得ない、涯子のひよわな魂。強靭とはどうあってもいいくるめることのできぬ長い昼は、恐らくこの句を境に、一瞬のうちに傾くのであろう。すると誰かがいう。


          六月の薔薇、大連にいたエミリーを悲しむ

  

  1. 2006/01/06(金) 15:17:48|
  2. ■ 『阪口涯子句集』 解説・井上光晴
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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (2)


          写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて
           


         
   *~~~~~~~*~~~~~~~*~~~~~~~*

        ●黒の回想 わが俳句遍歴記 (2)
 
   1980年1月4日(金)つづき
 
 涯子よお前は今海程に居て「長老」と呼ばれ、或いはそれは海程の若い人に嘲弄されているのかもしれぬ。


 黒い涯子よ。アレックス・ヘイリーか或いはその子孫のごとく、クンタ・キンテの北西アフリカのルーツを何うしても一度見直したかった、その生の本能がそうさせたのか。


「古いものはすべて塵(ちり)になるんだよ」とアレックス・ヘイリーの祖母は云ったが、その塵になり終ったのか、巨木の横断面


によみとれるほどの年輪が尚存在しているのか、黒い涯子のルーツを求める遍歴、それが何んなに悔しい遍歴であってもいい、その墓碑銘をやっとお前は書きたくなったのにちがいない。



 戦争中一度、「も少し線の太い俳句は書けないものかネ」と禅先生は僕に云った。戦車がバリバリと向日葵をふみしだいて行くような作品はぼくの柄になかったので、そして満州の苦力(クリー)や


トラホーム少年のうたなどばかり書いていた僕に禅先生は少し我慢が出来なかったのであろう

がぼくだって戦車が向日葵をふみしだく音にはガマンが出来ない。中国の都市を占領してその城門での日の丸踊りの風景が何十もつづく


その裏側のものには、ぼくの神経は堪えられない。正に不肖の弟子である。


 戦前、戦中、戦後を通じて福岡今泉の銀漢亭、即ち「天の川」発行所を訪れたのは四、五回であっただろうか。戦後おとずれた時は銀漢亭はすでに焼け落ちて南瓜畑の隅っこの仮小屋の縁側に禅先生はちょこなんと座っておられた。


 敗戦後二年目の夏であった。そこには向日葵も戦車も大豆糟(かす)の重みに堪える苦力も居

なかった。日の丸の旗も無かった。禅先生の眼には心なしか少し光るものがあった。



 あのころはひどい交通難で佐世保のそれも片はずれの郊外から廃墟の福岡に出て、親戚の結核で瀕死の小母をたづね、そこに一泊しての翌朝だったように記憶する。

南瓜の花にはまだ露が垂れていた。


禅先生が無事帰還したぼくのこと、その時ひどく喜んで呉れたことは覚えているが、そのときすでに先生の胸中にはおそらく全口語自然律俳句の構想が、異国風の貝やぐらの風景のように点滅していたことであろうが不肖の弟子涯子はそれに全く気が付かなかった。



 それよりぼくの親戚の小母さんのことに触れておく。昭和十年から十二年まで、大連での放逸のはてにぼくは九大に帰学していた。そして人体における癌の発生機序という飛んでもない大問題に蟷螂の斧をふるった。



 それはミニミニのドン・キホーテ的冒険であったし、冒険というより、むしろそれは笑話であった。

その笑話の二年後の後半の一年間はぼくはこの小母さんの所に寄寓していた。そこの小父さんがぼくの家内のイトコであって、よく働いたがよく飲む人でもあった。

  1. 2006/01/05(木) 21:22:13|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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解説・ 1


              

   ★ 阪口涯子句集・解説・井上光晴(1)


 涯子へー
 
 阪口涯子は流浪する戦闘者である。或は撃たれる人といい換えてもよい。それはむろん

「老ゲリラ無神の海をすべてみたり」

「蒼穹に人はしずかに撃たれたる」

という作品をそこにおいていうのだが、言葉だけのかかわりではなく、数十年をへだてる秀作の間に放たれる苦渋にみちた表現者の苦闘は、文字通り文学に撃たれた人間の苛烈ないきざまに裏打ちされていよう。

 1951年夏、朝鮮戦争の渦中、涯子から手渡された『北風列車』の頁を、夜店通りにある旧第一中央館の休憩時間に、私はめくった。

白い簡素な表紙にくるまれた句集をふたたび開いたのは、製氷会社の前の錆
びた桟橋である。これは癈屋でひもとくべき文学なのだという戦慄に似た思いがわが身をゆさぶったからにほかならぬ。



        苦力の子母の肩なる荷をなぐさめ
   
        巻ぶとん並べ税吏の指をおそれ  

        苦力群れ曠原北に乾燥せり

        ちよろずのかなしみの雪ふる島あり


 数年後、私はそれらの句を小説『ガダルカナル戦詩集』に「長崎医科大学附属看護婦養成所事件」の厭戦俳句として登場させているが、今、自作ノートや日記を検証すると、1957年から58年にかけて、随所に涯子の句への幼き批評を試みていることが判明する。

  1. 2006/01/04(水) 14:57:22|
  2. ■ 『阪口涯子句集』 解説・井上光晴
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●黒の回想 わが俳句遍歴記 (1)







    写真「野茨」2005.5.16 酒匂川にて・涯子さんは薔薇が好きだったので



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    頌春。2006年の幕開けです。ご訪問の皆様、
    本年もよろしくお願い致します。
          
   
 涯子俳句工房を見ていただきたく、涯子が書いた日記
 「黒の回想」を転載いたします。
               
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※↓「航海日誌」1990年海程新社刊、後記:八木原祐計氏から転載          
  1901年生。1989年9月20日に逝くなったが、
「航海日誌」と「黒の回想」は既に校正刷りが出来上がっていて、
彼自身の朱が入れられたまま枕頭に残された。・・と。 



       ■追記(2012年9月)nora

 コメントいただきましたみなさまに 謹んでお詫び申し上げますm(__)m
 
 全編タイトルに 涯子俳句を掲載していましたが
 125編を続けて読んでいただく際 1~125まで
 タイトルにNOをつけた方が
 読みやすいと判断して タイトルを修正させていただきました

 タイトルでご紹介した俳句へのコメントを沢山いただきながら
 意味不明のコメントになってしまい お詫び申しあげます。





         ●黒の回想 わが俳句遍歴記 (1)
 
   1980年1月4日(金)    玄海に泛ぶ島にて

 自分に都合の悪いことは、わざと書き落としたり、あるいは田舎写真師が人物を修正するようにわざと

顔の皺を消し去ってのっぺらぼうの美男美女に仕立て上げるあの手を使い、自分に都合のよいことは、雲雀のように囀りちらし、

天国のようにながいメロディーを演奏する。それが回想録というものの本質だ。


 
 だから誰一人、回想録を信じはしない。だったら兜太や雄介に頼まれたからと云ったって、涯子は何故、「天の川」の旧友、北垣一柿や片山花御史を福岡のホテルや遠賀川の中流まで尋ねて行って「天の川」のことなど書こうとして厖大な文献を借りてきてのか。

 
 なお遥かに遠方だったから行きはしなかったが、豊前の小川素光や延岡の古城澄子(禅寺洞の二女)をも尋ねようとしたのか。(つづく)
 
 
            
       
      

  1. 2006/01/03(火) 20:59:44|
  2. ■ 『黒の回想・わが俳句遍歴』 阪口涯子
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